みなさん、こんにちは。みっくんです。
今日は、石原加受子の光と波のきろくより、
愛してもらいたいと望むことを紹介したいと思います。
是非、読んでみてください。
愛してもらいたいと望むこと
最近とみに思うことは、
いかに我々が、
「人に愛してもらいたい」と欲求しているかということだ。
もちろん愛されれば嬉しい。
けれども、「愛されれば本当に満足するのだろうか」と、しばしば疑問に思う。
この「愛される」という点について、多くの人が描くのは、
「私が望むときに、自分の望むような愛された方をしたら、
この上なく幸せだろうなあ」というイメージではなかろうか。
「私は何も言わずに、私の思っていること、
感じていることは察知して、私は何も言わずに、
私の望むような愛し方をして欲しい」
そんな望み方である。
だから当然、
「私が話したくないときは、それを察知して、
話したくない私の心を理解して、
私の気に入るような対応をして、
話したくないという気持ちを満足させてほしい」と望む。
「私が、一緒にいたいときは、私が黙っていても、
それを察して、私の一緒にいたいという思いを叶えて、
満足させてほしい」と望む。
「私が眠たいときは」
「私がドライブしたいときは」
「私が悲しいときは」
「私が食べたいときは」などと、言い出せばきりがない。
「愛されたい人」は、それを相手に要求する。
では、その要求に応えようとする人はどうだろう。
そんな「愛されたい」を望む人の要求を満足させるには、
100%に近い他者中心の意識で、
その人のために生きることになる。
まるで愛されたい人の奴隷である。
しかも、それは「心」までも、という奴隷以上の条件つきである。
例えば、一般的には、叩かれれば痛いという苦悶の表情をするだろう。
しかし、愛されたい人の望みを叶えるためには、
その要求に応えようとする人は、
その人が何を望むかを瞬時に察知して、
その人の要求を「自分の欲求として感じなければならない」。
愛されたい人が、
「痛いという苦悶の顔をしてほしい」と望んでいるのであれば、
すぐにそういう感情が湧きあがる。
愛されたい人が「叩かれて嬉しい」と望んでいるのであれば、
「嬉しい」という感情が湧きあがる。
そんな相手がこの世にいるのだろうか。
もともと理不尽な要求であるし、
実現不可能な欲求なのだ。
こんなふうに突き詰めていけば、
「私の願いを100%叶えてくれる人」はこの世のどこにも存在しない。
けれども、ただ一人、“いる”。
それは、「自分自身」である。
いかがだったでしょうか。
他者中心の意識で、相手の望むことに応え続けるのは、
正直言って、しんどいですよね。
すべて、相手のことで、自分の対応をしなければならない。
相手の望むとおりの反応をしなければならない。
ここに書いてあるとおり、奴隷になったような気持ちになってきます。
また、他者にそういう愛され方を望んでも、
そんな人は、この世の中にいないと思います。
それをわかっていても、望んでしまうのは、
どうしてでしょうね。
最近、ブログで、
他者からの承認欲求を満たすことが嬉しいと書いてある物を目にしました。
しかし、他者からの承認をもらおうとすれば、それこそ、
人の数だけ、そのやり方が存在することになるのではないでしょうか。
承認を他者に求めるよりも、
自分で自分を認める作業をすることが
より深い安心感を生むことになると思っています。
みなさんも他者から愛されたいを望むよりも、
自分で自分を愛する作業をしていっていただきたいと思います。
その方法は、このブログでも紹介しているので、
過去の記事を参考にしていただきたいと思います。
自分で自分を愛することができた時、
愛されることを他者に求めない自分になっていくことと思います。
それでは、みなさん、今日もよい1日をお送りください。
自分を基準にして、楽に生きられることを祈っています。
以上、【自分中心心理学】愛してもらいたいと望むこと
~石原加受子の光と波のきろくより~でした。